HISTORY


CORPORATE新着情報

110th Anniversary

2016.06.16-17

@大阪市中央公会堂


元林の現在・過去・未来を一堂に

披露した大展示会

「motto show」を開催



110周年という大きな節目を迎えるにあたり、株式会社元林の現在・過去・未来を感じていただける 「motto show」と銘打った大展示会を大阪市中央公会堂 にて2016年6月16日(木)~17日(金)の2 日間に渡って開催しました。会場には400名を超えるお客様にご来場いただき、元林が手掛ける幅広い事業を一堂にご覧いただくことができました。

この「motto show」は、展示の内容からイベント、ケータリング、お客様へのおもてなしなど、すべてを外部へ委託することなく、社員そして関係者の皆様のご協力を得て、企画から会場手配、搬入、ブースのディスプレイなどの準備を社員一丸となって行い、心のこもった110周年の歴史にふさわしい、心温かな「motto show」を実現することができました。

社訓


和親の心で一致協力

責任感と旺盛なるファイトを抱き

慢心することなく礼節を尽くし

質素を旨とし、根気よく仕事に励み

信頼される人となりましょう

沿革


明治

1905年(明治38年)創業
明治38年8月、元林金蔵によって東区松屋町で商号”西海金蔵商店”として発足。創業時よりステッキをはじめ、当時、元林金蔵が考案したハッカパイプが ブームに乗って全国のヒット商品としてハイカラ族に人気を博した。

大正

1915年(大正4年)
店舗を東区南久太郎4丁目に移転。当時としては非常にユニークな”世界第一ステッキの親玉ーーー地球紳士印”の看板が道行く人々から注目された
1920年(大正9年)
浪速区元町1丁目(現在の国鉄湊町駅東側)に工場を建設。原木からの一貫生産は品質の良いファッション性の高いステッキを生み出した。
●好景気で着々と販路を拡大。北海道から九州まではもちろん、中国の東北部、南西部、韓国まで販路を拡大しつつ貿易商を通じて輸出も活発に行う。

昭和

1930年(昭和5年)
初代、元林金蔵が第一線を立退き、当時25歳であった元林勝治に店主の座を譲る。年間売上高10万円を突破。記念祝事が行われた。当時一般市場に出始めたライターはまだマッチに押されていたがパイプ(ホルダー)類がよく伸びていた。
●ハッカパイプ、シガレットパイプ(ホルダー)…象牙・べっ甲・ブライヤー・ラクト・コハク・ベークライト製
●ライター…棒ライター(小判、丸型)ロンソン型、KW型、ソーレンス型、ワンハンド型
●輸入品…ダンヒル・スリービー等
●キセル…鉄製、真鋳、金、銀メッキ等
1937年(昭和12年)
1938年~ー1939年頃は、弊社の取扱高、ステッキ30%、喫煙具70%になっていた。また、1940~1941年にはステッキの協同組合が大阪に、1942年頃には東京にも組合が政府の定める公定価格と業者の協定価格の遵守を目的に作られた。
1942年(昭和17年)
この頃、弊社の営業方針は店頭販売より出張販売に力を入れ、業績も東西大手5軒の仲間入りをしている。
1944年(昭和19年)
3月、遂に45歳未満の男子の平和産業への就業禁止令が発令、やむを得ず営業は停止となる。前述の浪速区元町の工場を軍需産業へ転換し飛行機の木工部品を生産すべく準備に取りかかったが翌1945年(昭和20年)3月の大阪大空襲で工場および船場の本社は全焼。一からの再出発を余儀なくされた。
1946年(昭和21年)
終戦後すぐに大阪市北区牛丸町(JR大阪駅北側)に店舗を設置。この年から早くも戦後の営業を開始した。3月政府からの通貨切換が発令され、売り先は旧円を希望し、仕入先は新円を望まれたため大変苦しい営業が続いた。勝治はライターを仕入れるためにリュックサックに現金を詰め込み、大阪から東京まで夜行列車で買い付けに行き、夜行列車で大阪に戻るという生活を続け、会社を再建した。
1947年(昭和22年)
12月25日、東区北久宝寺町4丁目に本店を新築。戦後2年目にして商人の町船場に復帰できた。ちなみに当時の商品は、大阪生産のライター、鋳物のホルダー、プラスチックホルダー、象牙ホルダー、東京生産のライター、マドロスパイプ、燕市(新潟県)のキセル等。燃料であるガソリンが戦前に比べ手に入りやすくなったのと、進駐軍がライターを使っていたのが流行の起因で喫煙具が売れ出した。
1954年(昭和29年)
業容の発展に伴い、株式会社に改組、代表取締役に2代目の元林勝治、専務取締役に長男の元林勝一が就任。社員一同、新たな決意で30年代へ突入。
1956年(昭和31年)
東区横掘に貿易部を開設し、外貨獲得に貢献するとともに元林勝一が専務兼貿易部長に就任。
1958年(昭和33年)
東京都台東区永住町に東京出張所を開設。二男の元林義雄が出張所所長として就任。主として輸出のための工場関係の仕事が中心であった。
1961年(昭和36年)
台東区永住町から荒川区東日暮里に土地を求め自社社屋を新築。出張所を支店に昇格させ初代支店長に元林義雄がそのまま就任。
1962年(昭和37年)
7月に社訓を制定し、弊社の長期方針、経営指針を発表した。
1963年(昭和38年)
日本最初の使い捨てライターが発売される。
1964年(昭和39年)
この年は株式会社改組10周年に当たり、記念催事を行うと共に輸出面では通商産業省(経済産業省)大臣より輸出貢献企業の表彰を受ける。
1965年(昭和40年)
広島営業所の開設を皮切りに、高松営業所も開設。輸出は好調であったが、国内販売体制を強化すべきとの方針により国内の営業拠点を整備していった。
1968年(昭和43年)
福岡営業所を開設、西日本におけるネットワークを敷いた。これら営業所はライターのアフターサービスと消費者本位の営業強化を目的としたものであり、西日本における業容拡大に貢献した。
1970年(昭和45年)
創業65周年を迎える。ちょうど大阪千里の地に万国博が開催され、見学を兼ねて全社合同記念式典を行う。
1972年(昭和47年)
大黒柱を務めてきた社長・元林勝治を失う。戦前、戦後の大きな苦難に耐え、会社を強力に引っ張ってきた元林勝治の旅立ちは多くの人に惜しまれた。5月、元林勝一が3代目社長に就任。1973年に変動相場となり、それまで1ドル360円の固定レートであったものが急激に円高(1ドル260円)に変化。輸出に急ブレーキがかかる。
1974年(昭和49年)
大阪市南区南船場に経営の効率化と将来の発展を意図して本社ビルを新築、移転。社団法人大阪府経営合理化協会より第1回優良企業の表彰を受ける。
1975年(昭和50年)
創業70周年、本社ビル新築の効果が早くも表れ、多様化する商品、販売ルートへの対応が可能となる。東海精機が使い捨てライターを100円で発売。使い捨てライターの市場が急拡大し、当社もオリジナルブランド「ルパン」の使い捨てライターを拡大していった。
1977年(昭和52年)
セリーヌ(ライター)の日本総代理店となり、販売を開始。喫煙具においてメーカー機能を持つ商社へと変化していく。
1979年(昭和54年)
業績の伸びと共にこの年には社団法人大阪府経営合理化協会より第2回優良企業の表彰を受ける。
1980年(昭和55年)
創業75周年に当たり、売上高も50億円を達成し、記念式典を行う。
1983年(昭和58年)
東京都中央区日本橋人形町に東京支店ビルを新築、移転。また、燃料をまったく使わないオリジナルライター「ガリガリ」を発売。
1984年(昭和59年)
第3回優良企業に認定される。大阪府卸団体連合会より表彰を受けると共に、チャレンジする先端企業として日本工業新聞より発行の単行本「活力経営の秘密」にも掲載される。
1985年(昭和60年)
創業80周年を迎え、記念式典”感謝の集い”、全社員慰安旅行、記念展示会など催事を行うと共に社員一同創業者精神を肝に銘じ、21世紀に向けて精進することを誓い合った。
●9月22日のプラザ合意により円高が急激に進行。1ドル230円台のレートが1年後には1ドル150円台で取引されるようになり、円高とバブル経済の時代がスタートした。
1987年(昭和62年)
大阪市西区北堀江に新本社ビルを新築、移転する。

平成

1990年(平成2年)
この年より3年間、鈴鹿8時間耐久レースにスポンサーとして参加。婦人服や喫煙具の小売事業を本格的に開始する。
1991年(平成3年)
JR大阪駅構内ショッピングセンター ギャレに小売店「サウスヤラ」オープン。小売業態を新業態に加え、メーカー機能、卸売機能、小売機能を併せ持つ専門商社に変化していく。
1992年(平成4年)
元林勝一が会長就任。元林義雄が4代目社長に就任する。
1995年(平成7年)
創業90周年を迎えたが、1/17に阪神・淡路大震災が発生したためすべての記念行事を中止する。想像を絶する大地震は大きな痛手となった。8月、会長・元林勝一が逝去。
2000年(平成12年)
創業95周年。元林義雄が会長就任。三男の元林昌三が5代目社長に就任する。100円均一ビジネスに新規参入する。
2005年(平成17年)
創業100周年を迎える。社員慰安旅行で北海道へ行く。阪神タイガースの優勝によってタイガースグッズが大変よく売れ、売上に大きく貢献した。
2007年(平成19年)
デザインプロダクツSemk(セムク)社の日本代理店となり、ネックピロ―スピーカーやアヒルのキャラクター「B,Duck」(ビーダック)のバスグッズがヒット商品となった。
2008年(平成20年)
イタリアのファクトリーブランド「オロビアンコ」を中心にセレクトしたバッグと雑貨のセレクトショップ「quattro・angoli」(クアトロ・アンゴリ)1号店をオープン。当時、関東・関西・広島で10店舗展開。ブランディングビジネスをスタートする。
2009年(平成21年)
ブルガリア産ダマスクローズの天然精油「Palechka」(パレチカ) を新発売。
2010年(平成22年)
元林昌三が会長就任。元林勝一の長男・元林承治が6代目社長就任。
2012年(平成24年)
4月、愛煙家に寄り添う全席喫煙のカフェ「SMOKING CAFE BRIQUET」(スモーキングカフェブリケ)をイオンレイクタウン(越谷)にオープン。10月、クリエイターや起業家の活動支援と交流の場としてクリエイターズシェアオフィス「シゴトバBASE」を大阪本社ビル3Fにオープン。モノに加え、コトとロケーションを融合させたビジネスの展開を新たに始める。 リラックマの作者・近藤アキさんの新しいキャラクター「うさぎのMofy」(モフィ)のぬいぐるみカテゴリーでライセンス契約を結び、ぬいぐるみ等の企画・製造・卸をスタート。
2014年(平成26年)
9月、デザイナー古澤正和によるオートクチュールとストリートを融合した新しい帽子「KAMILAVKA」(カミラフカ)のフラッグシップショップが東京・青山にオープン。10月、プロダクトデザイナー大友学氏による日本の工業技術とファッションをデザインで融合した新しいアクセサリー「INSTANT JEWEL」(インスタントジュエリー)を新発売する。
2015年(平成27年)
8月、創業110周年を迎える。 コンセプトショップ「DESPERADO」のクリエイティブディレクター兼バイヤー・泉英一氏のディレクションによる、世界中のgood thingsを集めてライフスタイルをデザインするセレクトショップ「It’s so easy」(イッツソーイージー)を東京・青山にオープン。
2016年(平成28年)
2月、シゴトバBASE(シゴトバベース)を増設し、3Dプリンターやレーザー彫刻機、塗装などの機能を備えたモノづくりの新拠点「シゴトバLAB」(シゴトバラボ)を開設。6月元林110周年大展示会「motto show」を大阪市中央公会堂にて6/16-17の二日間に渡って開催する。12月、オリジナルライター「GEAR TOP®」を新発売。
2017年(平成29年)
2月、フィンランド発のバッグブランド「LUMI」の日本国内総代理店をスタートする。
2017年3月
バッグブランド「JAS M.B.」で2000年にコレクションデビューした、ロンドンに活動 拠点を置くデザイナー・Jas Sehmbi(ジャス・センビ)氏が展開する4ブランド 「MAKE WHAT YOU WILL」「SACKVILLE」「SIXTEEN:EIGHT」「SOFU LAB」の独占販売権 利権を取得する。
2019年(令和元年)
東京支店を日本橋人形町から渋谷へ移転
2020年(令和2年)1月
事業拡大に伴い、本社を大阪市西区北堀江から神戸市東灘区本山南町へ移転。

明治


1905年(明治38年)創業
明治38年8月、元林金蔵によって東区松屋町で商号”西海金 蔵商店”として発足。創業時よりステッキをはじめ、当時、元林金蔵が考案したハッカパイプが ブームに乗って全国のヒット商品としてハイカラ族に人気を博した。

大正


1915年(大正4年)
店舗を東区南久太郎4丁目に移転。当時としては非常にユニークな”世界第一ステッキの親玉ーーー地球紳士印”の看板が道行く人々から注目された。
1920年(大正9年) 浪速区元町1丁目(現在の国鉄湊町駅東側)に工場を建設。原木からの一貫生産は品質の良いファッション性の高いステッキを生み出した。
好景気で着々と販路を拡大。北海道から九州まではもちろん、中国の東北部、南西部、韓国まで販路を拡大しつつ、貿易商を通じて輸出も活発に行う。

昭和


1930年(昭和5年)
初代、元林金蔵が第一線を立退き、当時25歳であった元林勝治に店主の座を譲る。年間売上高10万円を突破。記念祝事が行われた。当時一般市場に出始めたライターはまだマッチに押されていたがパイプ(ホルダー)類がよく伸びていた。
●ハッカパイプ、シガレットパイプ(ホルダー)…象牙・べっ甲・ブライヤー・ラクト・コハク・ベークライト製
●ライター…棒ライター(小判、丸型)ロンソン型、KW型、ソーレンス型、ワンハンド型
●輸入品…ダンヒル・スリービー等
●キセル…鉄製、真鋳、金、銀メッキ等
1937年(昭和12年) 1938年~1939年頃は、弊社の取扱高、ステッキ30%、喫煙具70%になっていた。また、1940~1941年にはステッキの協同組合が大阪に、1942年頃には東京にも組合が政府の定める公定価格と業者の協定価格の遵守を目的に作られた。
1942年(昭和17年) この頃、弊社の営業方針は店頭販売より出張販売に力を入れ、業績も東西大手5軒の仲間入りをしている。
1944年(昭和19年) 3月、遂に45歳未満の男子の平和産業への就業禁止令が発令、やむを得ず営業は停止となる。前述の浪速区元町の工場を軍需産業へ転換し飛行機の木工部品を生産すべく準備に取りかかったが翌1945年(昭和20年)3月の大阪大空襲で工場および船場の本社は全焼。一からの再出発を余儀なくされた。
1946年(昭和21年) 終戦後すぐに大阪市北区牛丸町(JR大阪駅北側)に店舗を設置。この年から早くも戦後の営業を開始した。3月政府からの通貨切換が発令され、売り先は旧円を希望し、仕入先は新円を望まれたため大変苦しい営業が続いた。勝治はライターを仕入れるためにリュックサックに現金を詰め込み、大阪から東京まで夜行列車で買い付けに行き、夜行列車で大阪に戻るという生活を続け、会社を再建した。
1947年(昭和22年) 12月25日、東区北久宝寺町4丁目に本店を新築。戦後2年目にして商人の町船場に復帰できた。ちなみに当時の商品は、大阪生産のライター、鋳物のホルダー、プラスチックホルダー、象牙ホルダー、東京生産のライター、マドロスパイプ、燕市(新潟県)のキセル等。燃料であるガソリンが戦前に比べ手に入りやすくなったのと、進駐軍がライターを使っていたのが流行の起因で喫煙具が売れ出した。
1954年(昭和29年) 業容の発展に伴い、株式会社に改組、代表取締役に2代目の元林勝治、専務取締役に長男の元林勝一が就任。社員一同、新たな決意で30年代へ突入。
1956年(昭和31年) 東区横掘に貿易部を開設し、外貨獲得に貢献するとともに元林勝一が専務兼貿易部長に就任。
1958年(昭和33年) 東京都台東区永住町に東京出張所を開設。二男の元林義雄が出張所所長として就任。主として輸出のための工場関係の仕事が中心であった。
1961年(昭和36年) 台東区永住町から荒川区東日暮里に土地を求め自社社屋を新築。出張所を支店に昇格させ初代支店長に元林義雄がそのまま就任。
1962年(昭和37年) 7月に社訓を制定し、弊社の長期方針、経営指針を発表した。
1963年(昭和38年) 日本最初の使い捨てライターが発売される。
1964年(昭和39年) この年は株式会社改組10周年に当たり、記念催事を行うと共に輸出面では通商産業省(経済産業省)大臣より輸出貢献企業の表彰を受ける。
1965年(昭和40年) 広島営業所の開設を皮切りに、高松営業所も開設。輸出は好調であったが、国内販売体制を強化すべきとの方針により国内の営業拠点を整備していった。
1968年(昭和43年) 福岡営業所を開設、西日本におけるネットワークを敷いた。これら営業所はライターのアフターサービスと消費者本位の営業強化を目的としたものであり、西日本における業容拡大に貢献した。
1970年(昭和45年) 創業65周年を迎える。ちょうど大阪千里の地に万国博が開催され、見学を兼ねて全社合同記念式典を行う。
1972年(昭和47年) 大黒柱を務めてきた社長・元林勝治を失う。戦前、戦後の大きな苦難に耐え、会社を強力に引っ張ってきた元林勝治の旅立ちは多くの人に惜しまれた。5月、元林勝一が3代目社長に就任。1973年に変動相場となり、それまで1ドル360円の固定レートであったものが急激に円高(1ドル260円)に変化。輸出に急ブレーキがかかる。
1974年(昭和49年) 大阪市南区南船場に経営の効率化と将来の発展を意図して本社ビルを新築、移転。社団法人大阪府経営合理化協会より第1回優良企業の表彰を受ける。
1975年(昭和50年) 創業70周年、本社ビル新築の効果が早くも表れ、多様化する商品、販売ルートへの対応が可能となる。東海精機が使い捨てライターを100円で発売。使い捨てライターの市場が急拡大し、当社もオリジナルブランド「ルパン」の使い捨てライターを拡大していった。
1977年(昭和52年) セリーヌ(ライター)の日本総代理店となり、販売を開始。喫煙具においてメーカー機能を持つ商社へと変化していく。
1979年(昭和54年) 業績の伸びと共にこの年には社団法人大阪府経営合理化協会より第2回優良企業の表彰を受ける。
1980年(昭和55年) 創業75周年に当たり、売上高も50億円を達成し、記念式典を行う。
1983年(昭和58年) 東京都中央区日本橋人形町に東京支店ビルを新築、移転。また、燃料をまったく使わないオリジナルライター「ガリガリ」を発売。
1984年(昭和59年) 第3回優良企業に認定される。大阪府卸団体連合会より表彰を受けると共に、チャレンジする先端企業として日本工業新聞より発行の単行本「活力経営の秘密」にも掲載される。
1985年(昭和60年) 創業80周年を迎え、記念式典”感謝の集い”、全社員慰安旅行、記念展示会など催事を行うと共に社員一同創業者精神を肝に銘じ、21世紀に向けて精進することを誓い合った。
●9月22日のプラザ合意により円高が急激に進行。1ドル230円台のレートが1年後には1ドル150円台で取引されるようになり、円高とバブル経済の時代がスタートした。
1987年(昭和62年) 大阪市西区北堀江に新本社ビルを新築、移転する。

平成


1990年(平成2年)
この年より3年間、鈴鹿8時間耐久レースにスポンサーとして参加。婦人服や喫煙具の小売事業を本格的に開始する。
1991年(平成3年) JR大阪駅構内ショッピングセンター ギャレに小売店「サウスヤラ」オープン。小売業態を新業態に加え、メーカー機能、卸売機能、小売機能を併せ持つ専門商社に変化していく。
1992年(平成4年) 元林勝一が会長就任。元林義雄が4代目社長に就任する。
1995年(平成7年) 創業90周年を迎えたが、1/17に阪神・淡路大震災が発生したためすべての記念行事を中止する。想像を絶する大地震は大きな痛手となった。8月、会長・元林勝一が逝去。
2000年(平成12年) 創業95周年。元林義雄が会長就任。三男の元林昌三が5代目社長に就任する。100円均一ビジネスに新規参入する。
2005年(平成17年) 創業100周年を迎える。社員慰安旅行で北海道へ行く。阪神タイガースの優勝によってタイガースグッズが大変よく売れ、売上に大きく貢献した。
2007年(平成19年) デザインプロダクツSemk(セムク)社の日本代理店となり、ネックピロ―スピーカーやアヒルのキャラクター「B,Duck」(ビーダック)のバスグッズがヒット商品となった。
2008年(平成20年) イタリアのファクトリーブランド「オロビアンコ」を中心にセレクトしたバッグと雑貨のセレクトショップ「quattro・angoli」(クアトロ・アンゴリ)1号店をオープン。現在、関東・関西・広島で10店舗展開。ブランディングビジネスをスタートする。
2009年(平成21年) ブルガリア産ダマスクローズの天然精油「Palechka」(パレチカ) を新発売。
2010年(平成22年) 元林昌三が会長就任。元林勝一の長男・元林承治が6代目社長就任。
2012年(平成24年) 4月、愛煙家に寄り添う全席喫煙のカフェ「SMOKING CAFE BRIQUET」(スモーキングカフェブリケ)をイオンレイクタウン(越谷)にオープン。10月、クリエイターや起業家の活動支援と交流の場としてクリエイターズシェアオフィス「シゴトバBASE」を大阪本社ビル3Fにオープン。モノに加え、コトとロケーションを融合させたビジネスの展開を新たに始める。 リラックマの作者・近藤アキさんの新しいキャラクター「うさぎのMofy」(モフィ)のぬいぐるみカテゴリーでライセンス契約を結び、ぬいぐるみ等の企画・製造・卸をスタート。
2014年(平成26年) 9月、デザイナー古澤正和によるオートクチュールとストリートを融合した新しい帽子「KAMILAVKA」(カミラフカ)のフラッグシップショップが東京・青山にオープン。10月、プロダクトデザイナー大友学氏による日本の工業技術とファッションをデザインで融合した新しいアクセサリー「INSTANT JEWEL」(インスタントジュエリー)を新発売する。
2015年(平成27年) 8月、創業110周年を迎える。
2016年(平成28年) 2月、シゴトバBASE(シゴトバベース)を増設し、3Dプリンターやレーザー彫刻機、塗装などの機能を備えたモノづくりの新拠点「シゴトバLAB」(シゴトバラボ)を開設。6月元林110周年大展示会「motto show」を大阪市中央公会堂にて6/16-17の二日間に渡って開催する。12月、オリジナルライター「GEAR TOP®」を新発売。
2017年(平成29年) 2月、フィンランド発のバッグブランド「LUMI」の日本国内総代理店をスタートする。
3月、バッグブランド「JAS M.B.」で2000年にコレクションデビューした、ロンドンに活動 拠点を置くデザイナー・Jas Sehmbi(ジャス・センビ)氏が展開する4ブランド 「MAKE WHAT YOU WILL」「SACKVILLE」「SIXTEEN:EIGHT」「SOFU LAB」の独占販売権 利権を取得する。
2019年(令和元年) 東京支店を日本橋人形町から渋谷へ移転
2020年(令和2年) 1月、事業拡大に伴い、本社を大阪市西区北堀江から神戸市東灘区本山南町へ移転。
2021年(令和3年) 2月、元林承治が会長就任。草野家継が7代目社長就任。
2023年(令和5年) 7月、福岡営業所を「九州事業所」に改め、福岡市中央区に事業所を開設。
10月、持続可能な社会への貢献&地域コミュニティとの共存を目指し、日用品・文房具や雑貨などを灘区社会福祉協議会を通じて児童館9か所に寄付した活動に対し、灘区社会福祉協議会より「感謝状」が贈呈される。